YUKO

15年続けてきたヘアメイクの道の途中、ふいに出会った結婚〜出産の突然の激動。 どちらも自分には縁のないことと思いきっていた仕事しかしてこなかった2年前のわたしですが、現在は0歳児との生活に専念。 仕事を通じての美容のヒントときどき、ずっと独学し人生実験してきた心のことや引き寄せと呼ばれる心と世界のつながりについてや日々の気づきなど。 40歳目前、未来の自分へ贈るつもりで綴っていきます。

記事一覧(62)

「からだおもい」+「こころおもい」=最高の美容法

きょうはレッスン卒業生さんからたまたまご質問いただいたことで改めて書いておきたいと思った「美容ネタ」の記事です。質問は最近抜け毛が気になるほどあるのですが、オススメのシャンプーはありますか?とのご質問。そっからいろいろ書いておきたいことがだーっと回答から出てきました。わたし自身は数年前からお湯で洗うだけの「湯シャンなひと」の仲間入りしています。これも独特の仕事のスタイルでやってきたのでできたこと…。お店で勤めてたり雇われのときは恐ろしくてできなかった(汗)だってシャンプーとかも「売り物」のひとつですからね。当時は売る側がそれを「否定」するなんて…という気持ちでトライできなかった。いまはそうじゃなく「選択肢」の中のひとつにどちらもあっていいという答えにたどり着いたので今は堂々と言えます。シャンプーの良さも、シャンプーしない良さもどっちも詳しく伝えられるってことでもあるわけで。湯シャン歴はもう5年目くらいに入るのかな?トラブル一切なく、あぶらっぽくまとまるなんてこともなくさらっとしてますし、艶もあります。※ほんとにお湯でよくすすぐだけ。トリートメントとか一切つけてません。 (湯シャンの詳細は別記事で書きます。)うん、健康そのものだ。体調や感情の溜まり方によっては臭い、出ます。シャンプーしてる場合も同じです。髪も肌もからだの一部。〜〜剤〜〜薬 そんなモンクを含むシャンプーやトリートメントなどひととおり、世の中にはたーくさんあります。それで治るかといったら…一時のしのぎにはなるでしょうけど、根本の原因の部分をどうにかしなければ、時間が経ってからもっとひどい状態になってしまうこともあり得ます。髪に改善したい状態が現れた肌に気になるトラブルができたそうなったら細かい「からだ」と「こころ」の状況を見てみることです。今回のように例えば抜け毛だとしたら量はどのくらいなのか髪自体や地肌に変化はあるのかあるとしたらどんな状態が現れてるのか、どんな変化が起こっているのかそこをまず見てみる。そしてそれほどの量でなければ季節の変化による動物的な循環のひとつだったりもするしそれほどの変化でなければ近い過去から抱えている悩み事を溜め込んでいるせいだったり髪や地肌以外で対処した方がいいことや、捉え方を変えた方がいいことがでてきます。あまりに量が心配になるようなら病気のサインを疑ってみるあまりに変化が激しいようなら内臓に損傷が起こっていないかを疑ってみる心配なら信頼している病院へ相談してみることも大切です。メイクレッスンでも必ず受講される方に確認、指導するのも「洗い方」についてはとても重要な項目です。メイクで肌をきれいに見せたいって願いがあったとしたら何か現状の肌の状態に悩みがあるからで。その悩みの原因が「洗う」習慣の行程のどれか、または全部が要因になっている場合が少なからずあります。あとは髪の例と同じ。「からだ」か「こころ」か、両方か。見直してみて、まずそこから。そこにな〜〜にもなかったらそこからはじめて「美容」の出番。メイクだって実は作業するのは”手”だけど、ほんとは「こころ」が造るもの。そしてちゃんと細かな「からだ(の中の顔、肌)」の凸凹を感じながらするもの。「からだ」「こころ」。痛み喜び悲しみ楽しみ怒り美味しい冷たい熱い…いろんな「感覚」たち。そこを見て見ぬ振りしていたら、どんな「美容」の上書きでもごまかせません。ある程度の長い時間を「見た目をつくるひと」として仕事をしてきて心から思う真実です。

叶う、叶わないのカラクリ

夢や理想。憧れのひとやもの。念願の風景、環境。夢に辿りつきたいと願うとき、いろんなことが心に浮かびます。はじめは憧れの旅先の写真や、欲しくてたまらない思いでいっぱいになるそのモノが載ってる雑誌とかを見ながらうわ、すてき!と思う。それがスタート。実際その夢を叶えるひとの心の中はこれ、まじ欲しい!!(純粋)↓どうやったら手に入れられるかな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…とアンテナ立てとく。あとは基本忘れてて「いま」大事、すき、ネガティブ要素もちゃんと味わってる。↓なんかしらんけどGET!!!(収入があがったり、どっかから援助があったり、譲り受けるとか知人から一定期間信じられない値段で使用できるはなしを受けるとか)そんな流れなんだろうな〜と、豊かだなだなと感心するレベルの生活状況や資産を実際に持つひとたちと話をしてるとつくづくそう思います。金額こそそこまで大きくないものの、わたしの人生の中では同じくらいの価値レベルにあった大きさの金額のモノや現金が1年の間に3度も入ってくるという経緯もあった今年。振り返るとこれくらいシンプルな流れだったな〜と思い出されます。よくやった!!わたし ww(いい年まで人生ボロボロだったので ww)反対に現実何も変わらないときに起こってたのはこれがあればあのひとと近づける、恥ずかしくないこれがある生活なら不安も焦りもなくなるだろうこれがあれば!あれもこれも解決するだろう!(欲しいのはもはやそのものじゃなく、そのことで解消するであろう現在のネガティブ要素)↓でもいまのままじゃどうにもしようがないあれもないし…これもないし…わたしなんかにできっこない!わたしなんかにふさわしくない!(手に入れる術のことを考える隙もない)↓ビジョン化しても法則やっても○○式やっても何も変わらないいやなことや悩みは延々となくならない上に、最初のネガティブ要素は何も解消してないこんな流れ。もっと簡単に書いてみよう(笑)物に限らず小さなことから大きなことまで願っているものが形になるとき、(それは他人の態度とか目に見えない抽象的な現象でも)対象物に出くわす願望の状況に思いを巡らす↓それが叶ったときのなんともいえないワクワクするかんじが楽しい。以上。↓「たったいま、あるがままのいま」から「できること」は何かそのことが現実に「叶う」ありとあらゆる方法を「叶ったワクワク」と「叶うワクワク」を思い浮かべながらアンテナをはぐらす。以上。↓これ?え?これ??願ったこと以上のことがやってきた〜しかもそんなオプションしらんかったし〜ってかんじの流れで。反対の「なんもかわらん」か、「アカンくなっとる」ようなときって対象物に出くわす願望の状況に思いを巡らす↓それによって様々な感情が湧き出す(たいていの場合「比較」して自分や自分の現状とのの落差を探し出して落ち込む、責める、卑下する)↓叶わない現実や相手の態度などを否定しはじめる(手に入れないとそのネガティブ要素に堪えられないから)↓相手や物事の全面を受け取れないから一部の面すら享受できない↓良くて現状維持ちょっと痛いのが「よくなったように見せかける」「そう思えないのに思う」最悪失うこんなかんじだったなあ、と。じぶんで書いといて簡素すぎてびっくり。でもここまでシンプルにそうだったよね〜と感覚もともなって「落とせた」感あるのはいままでない。地味にしつこく追求し続けててよかったと思えた瞬間(笑)まとめみたいだけど「降りてきた」ので書いてみました。空気が乾燥してますね。幼い子供も「手がカサカサ」とか言ってるのを見ると、「大人になると失われていく○○」みたいな謡い文句の信憑性に一考しちゃう日々です。ほんとのとこどうなんだろ?ってのはやっぱり検証してみないとわからないものだなあ、と思います。ほんとのところにこだわること。やっぱ、ゆずれないですね。

躾の過程で見えた人間関係の悩みの正体

昨日人生のタイミングのはなしを書いていたのは夕方にさしかかる午後の遅い時間。もう食事のタイミングとかになってキッチンまわりで作業をはじめると…子供はわめきだすわ(超食いしん坊)キッチンの棚からタッパーやらボウルやら網やらひっかき出して散らかした状態で遊ぶわいちいち調べながらやるのでなんか忙しいわ(毎日の献立バリエゼロなんでクックパッド様様)で完全おかんマシン化してるので、それ以降の時間はほっとんど「書く」なんて芸当はできません。書きたいな〜ってことも、日常すぎてぴんとこなかったりして。ところが昨日はスーパームーンの影響なのか??(笑)突然チビくん「ごちそうさまでした〜」と食事の後手をあわせる仕草をしてにっこり。おかんはびっくりです。これまでは親の仕草を真似ることもなく、ニヤっと笑って瞬時に違う興味対象へうつるだけ。仕草を「やってみようね〜」なんてやらせてみた日にゃ、ニャー!と猫みたいな声出して嫌がる。そんなだったのに…。そして食後。 絵本を手に私のもとへ来て「ん!」と差し出してきた。(ちょっと前からよくやるようになってました)ので、読んで聞かせたら…ちゃんと最後まで聴き通した!!!またまたおかんびっくり。1歳前半代の男児くんのたいていの動きを見てると「絵本」はめくるのが楽しい。以上。ってかんじの使い方で、うちも例にもれずそれでした。「読んでくれよ〜」と言わんばかりに「ん!」と差し出す割には、わざわざ臨場感たっぷりのクサイ演技つけて読みあげはじめた途端に違う方へ歩き出す、ということを繰り返す日々で。ここ数日はページめくりながらなんか「やんややんや」言ってるな〜、とは思ってましたがそれでも上記の行動は相変わらず。そんなこんなの日々で「ん!」の仕草にウザイ感たっぷり感じてたとこでした(笑)子供の成長って日々細かく細かく行われている、正に「進化」なんでしょうけど。毎日一緒にいるとほんと「いつ大きくなってんの???」ってかんじくらいよくわかんないんですよね。寝て起きたら顔変わってたり。昨日わからなかった言葉を今日は理解していたり。ここのところ、大変だな〜と思う事柄が乳児のときとは種類が違うけどなんかやっぱしんどいなってのがしばらくつづいたときがあって。もがいた挙句、もう躾もできんダメ親でいいわと諦めたという経緯もあったばかりだったので、なんかそんな後割とすぐに覚えてくれるといいなあ〜こうあってくれるとうれしいんだけどなあ〜という結果がポンっと自分の目の前に現れたんで、ほんとびっくりしました。同時に人間関係でもやもやしてるときって結局ほしい結果だけを相手から求めてる =相手をコントロールしたがってるってことに知らずになってたりするからだったりしてたんだろうな〜、なんて回想したりして。昨日の気づきの引き続きでもありつつ、今日は過去いろんな経験も回想しつつ当てはまるそれぞれの状況にしみじみ…。おとな同士だとまあいいやってすんなり思うより先に、「こうするべき」とか「こうしなくちゃ」とか「普通はこうでしょ!?」みたいな体裁?的なものが先にアタマを占領しちゃったりしますもんね。で、さらに「大人だから」っていう意味不明な悪意前提の判断に寄っちゃう。”相手はわかってやってるんじゃないか”とか”裏にこんな意図があるんじゃないか”なんて妄想と一緒に。子供は裏があるときもあるけど、だいたい「いま、そうしたい」だけ。裏っていったって「いっつも怒られるからダメだと思うけどやっちゃえ」ってかんじの、やっぱり「たった今、そうしたい」だけ。いったってシンプル。よくよく考えると誤解されたりした時の自分の側の意図もそうでした。いろいろ誤解していた認識について本来の意味を教えられ続ける子供との日々。子育ては子育ち。子育ては自分育て。ほんとだな、と今日も思うのでした。

人生のタイミングの不思議

一昨日は牡牛座満月、しかもスーパームーンだったそうで。わたしの誕生星座は牡牛座なので、なんだかとっても親近感。そんな程度しか情報に触れたときに浮かんでこないくらい、天体図にも占い関係には特に明るくないわたし。過去何度かあったスーパームーンのときも特に興味も示さず。今回は当日知りました(笑)そんななのに今回はなぜか「天体図」の示す深いメッセージに何度も”当たる”ことに。「星」とは無関係にふとした場面で同じ言葉をかけられるという面白い現象もありました。メッセージはじぶんのいまあるままをまずじぶんで認めよう。そしてそれを発揮しなさいというもの。ついでになぜか突然あれもこれもいらないやって「手放す」?感覚に突然なったりも。理想の旦那さん像とか理想の態度とか人格とかを求めることいちいち”不足感”にかられる心のクセといちいち”劣等感”を感じる心のクセそれを避けよう、なくそうと思う気持ちとかとか。ずっと理想と違う反応とか結果に出くわしたとき、すごくイライラしてたようなことたち全部。義母に預けていたチビを迎えに行く道を歩きながら、突然そんな気持ちが降りてきて胸のつかえが取れたみたいにすっきりした気分なりました。いずれもいまここに「ない」ものたちだと信じ続けているから起こってることたち。そして「そのものあるがまま」の多面性の全ての面をちゃんと受け入れてないから生じる渇望でもあって。それって理想を叶えることよりも、やってくる物事や相手のあり方を「コントロールする」ことにフォーカスを置いていることになる。受け取りたいものの裏にあるもの獲得したい結果と同時に存在するもの欲しい態度をくれる人が内包している欲しくない反応の種そんなのいらないから、"その"一面だけが欲しいと。最近腸が張るな〜と不調を感じていた時期があったんだけど、これに気づかぬうちにハマっていたんだな〜という気づきにもなり…。相手本位結果本位。またじぶんが消えてたなあ、と。面白いのはそんな「気づき」が降りてきたのは、そんな意味合いを持った天体の配置だったんなんて全く気づいてなかったときだということ。純粋に「じぶん」を生きれるようになってくると、全く意識していなくても人生の選択とあらゆる占いとかスピリチュアルの最良のタイミングはなぜか必ず一致すると言います。いまだにこんなに呪縛があるよ…と、全然純粋に生きれてないじぶんに気がついて呆然とするけれど、それでもそのことに対して無意識状態ではなく意識できてるっていうだけでもいいってことなのかも。てことは純粋に自分を生きることはで自分が直接どこかで壮大な宇宙のリズムとつながってるのを自覚できるようになるってことになる。と、思うと、ますますじぶんのエネルギーの使い方や発揮の仕方には気を遣っていかなければいけないなという気持ちになります。まだまだニュートラルには程遠いけど、しつこく取り組んでいれば表面的じゃない変容を気がついたら得られてたって自覚できたのがうれしい満月の夜でした。

結婚、子育てはハンデ? 「失う」は同時に「得る」こと

実際にじぶんがそういう立場になるまでは、どんなことも「理解」には至らない。いつも心からそう思っていたけど、こと結婚出産子育てとそれに伴うオンナとしての人生においてどんな変容や何を受け入れることになるのかの細かなことについては宇宙くらい未知でファンタジーなフィルターがかかってました。実際にその立場を経験してる今なんだけど、こんなにも想像できる範囲をはるかに超えて、そして全く想像と違うものだなんて!と驚くとは思いもしませんでした(笑)今日は実際どうだったかの記事でもあり、ネガティブもあったけど…の実際のまとめ的記事です。未婚で出産未経験だったかつてのわたしは子供はハンデ結婚は不自由と、なんか五七五で一句読んだのかってくらいの単純でネガティブなイメージが8割でした。あとの2割はいわゆる打算的(?)な安心要素のイメージ。生活面のこととか、情緒的な孤独を感じないで済むとか。で、してみて実際。子供はほんとギフト!自由と可能性を教えてくれる神さまみたいな存在結婚は自由であたたかくて世界が広がるがほんとのところでした。子供はハンデ結婚は不自由ってのは完全にそういう側面でそういうふうに印象を持つこともできるだけで、そういうふうに感じてしまう場面や要素を含んでるだけってことがはっきりわかりました。そう思っちゃいがちな同じ場面に同じ頻度で出くわしても、結果そんなふうなイライラも子供がいたからこそ感じられた素晴らしい日々のギフトだ!とありがたい気持ちになって、さらにいるからこそできることも叶ったときのワクワク感も倍だ!!!ってなる。それも受け取り方だと。後述のそれって今のわたしのことですが、とはいえ日々イライラすることも激昂することもあるし不自由だって少しも感じないわけじゃない。やだな〜と感じることも、不条理だな!って感じることだってあります。それでもやっぱり総合的に受け取るものはありがたいギフト!!!って感でまとまってしまう。正直出産を経験したのちからつい最近までは、ものすごい孤独を感じてたりもしました。出産前にしょっちゅう行き来のあった友人が思いっきりスタンス変えるってのに遭遇したりもたし。子供を連れて食事をする機会もはじめはたびたびあったけど、やっぱり子供を持ったことがない立場なら子連れは何に気遣えばいいのかわかんないし、粗相されるのもあんまりいい気持ちはしないよねってことで…で、自分へのおさそいは激減。というかもうほとんど眼中外の世界。一方そうしてる方はお酒のむ席だってずっといつものペースでいられて、仕事もバリバリ自由にできる。 楽しそうに行き来が頻繁だった頃ちょっと悪く言ってたひとたちと絡む、つるむ。 Facebookでつながってたりしたらそういうのも流れ弾に当たるみたいに垣間見る。一方わたしはママ友を器用に作れるタイプでも、つくろうと思うタイプでもない。旦那さんがずっと家にいるわけでもなく、器用で細かく気配りとかしてくれるタイプでもなくむしろ長男ですかスタンス(笑 最初のうちは。今はだいぶパパらしくなってます)。だから孤独と不自由感でやりきれなくて泣いてたこと、たくさんありました。5ヶ月頃からひどい湿疹が発生しはじめてから1歳までは、少しの慣れからの余裕と成長を楽しめる気持ちもできたけど厳しい食事制限も加わって発散場所もなくていっぱいいっぱい。なんで?こんな思いしなきゃいけないの??って思いと同時に、そんな気持ちを味わいたかったんだ…って意外な気持ちとで複雑な気分を味わい尽くしました。でもこうすることでわたしはまた根っこにある気持ちを発見することができて。同時に逆の解釈をしたら得たものがたくさんあったことにも気づけたし、そしてそれは「望んでいたこと」そのものでした。縁遠くなることで「相手に合わせる」時間がなくなる=じぶんに集中する時間へシフト違うご縁とつながる時間やきっかけができるその付き合いの裏側にあった気持ちを表面化できたとかね。実際は時折子連れで仕事をしたりなんていうときもたびたびあったわけだし、もっと実際の生活はいろいろ新たな付き合いとや行き来も生まれたりしてておおむねしあわせってかんじの日々だったんですけどね。結婚生活もそう。うわ!これ失敗だったか!!!(笑)みたいなことだってしょっちゅう出くわすけど、結局はその相手に対して感じた感情をちゃんと消化しきるためのただの「きっかけの出来事」で。ちゃんとそこに時間とエネルギー向けて、おかしな偏りをニュートラルに戻せばあれはなんだったんだ??ってくらいするんと「問題」だったことはなかったことになってしまう。むしろまた「結婚してよかった!」と相手を見直す出来事として始末がついてたり。これって例え私が結婚も出産もしない人生だったとしても、どこかで同じ「問題」には出くわしてたし同じように向き合ってったのだと思います。たまたま結婚とか出産とか育児という状況がじぶんに起こったというだけだということを実際その立場を経験しているいま、ほんとに日々実感してます。過去のわたしはそのどれもスキル能力価値とかそんなふうな…なんか「ブランド品」的なイメージでとらえてたんですよね。そうじゃないぞ〜!と過去のわたしに往復ビンタと一緒にこの経験の事実を食らわしてやりたい(笑)超電撃結婚じゃないと、ここまできっちり考えを巡らすこともできなったかもな、とも思うのです。 条件とか吟味したりリスクを思いっきり計算して避けたりなんて余地があったら他の後悔の念で違う考察で頭いっぱいになちゃってたろうな、と(笑)なんでも条件で計算するもので「得た」ものってほんとは「失ってる」側面もある。逆もまた然り。ふつふつと実感する事実。もし結婚したいって思ってるひとがいたら、何かの発見になれば幸いです(笑)

カラダからのメッセージ

ここのところ下腹のあたり、腸のあたりなのかな?ずっと張っていて苦しい感じが取れませんでした。年末の声も近いからなのか予定がいろいろ続いていて、少しじぶんを優先する時間が減っていたせいかな?と思っていたら今朝子供の様子を見て感じたことで何に違和感を持っていたのかに気がつきました。息子くん明日で1歳3ヶ月。なのでそろそろ保育環境や交わるコミュニティについて考えたり、基本的な生活の動作を自分でするよう促すことへの意識をそういう行動が伴うたびにしていたり。乳児の頃の弱者生存管理的な緊張感を伴うことからステージが変わって、監督やマネージメントの部分が生活意識の大半になってきています。つい昨日までトイレトレーニングの一連の流れを順を追って覚えてもらおう、と日常の中で排泄のたびに声がけやおまる慣れを試みてました。結果。昨夜で断念(笑)うちは11ヶ月から布おむつにしたものの、濡れようがウンチしようが泣かない(汗)それでも用をしている様子はわかったから、声がけやおまるに座らせて話しかけなどやっていました。うん。もうかれこれ4ヶ月も毎日毎日そんなことをしてたんです(笑)まあ気負いなんてせずに適当にやろう、とほんと適当にやってたつもり。そう、つもり。彼はこの4ヶ月間、理解はしていながらもわざと嫌がってるというのを感じさせる反応ことごとく。まあ薄々はちゃんとそう感じてたんですが、わたしなりに「適当に」細々と続けてたんです。時間は夜中の3時。おしっこでむずかって目覚めてぐずったので、「適当」な日常の延長でおまるに座らせたらこれまでにない大爆発!その後20分くらい割れんばかりの爆音で泣き叫びました。パパは眠れないしわけわかんないしで背中をひたすらトントンしてなだめて。でもなぜかわたしはイライラもせず至極冷静。ぐずりや泣き叫ぶ声はいつでも猛烈にイラつくのに。泣き叫ぶチビに完全に背をむけて、ぼんやりと、でも覚醒してる意識の中でわたしははっきりと気づきました。おなかの張りはこれだ、と。下腹の張りの苦しいかんじって誰かに対して瞬間的に感じた本音を言いたいはずなのに、これまた瞬時に当たり障りのない違う言葉を発したりというときによく起こってたこと。ということは…フラストレーションを”意識できていない意識”の中では感じてるってこと?と一応その声はキャッチしながらガス抜き(小さいことでも本音で言いたいことを言い直してでも言う、とか)も入れつつ過ごしていたけど、どうも違うっていうのがここ数週間の間中ずっとあって。それで今回の騒動。トイトレ単体でどうのということじゃなく、じぶんにかまえよっていいう声だったんだな〜、と思い知らされました。本音を言うとか隠してたような「じぶん」を実際にちゃんと出して「大丈夫」なことを体感するとか相手のことより自分のことを優先するとかいろいろ「じぶん」の破壊と再生ってのはやってきてて得たものたくさん、ミラクル的なこともたくさん体験してきてたんだけど。わかったんです。性根クラスで「ひとのことに一生懸命すぎる」、と。わたしの「適当」って全然適当じゃないらしいってことに。無意識すぎて消耗してることになんて全く気がつかないけど、実際の魂の真ん中部分では「エネルギー他に行きすぎ!!!やめろ!!」って伝えている。そこにはっきり気付けた昨夜の出来事。それこのごろ何回かヒトにも言われてたんですよね。わたしの「フツー」って普通レベルじゃないですよ、ってね。カップルとしての日常なら「じぶん」にエネルギーかけるていう行動はわかりやすいのに、伝える導くっていう要素が入ってくると責任管理の部分がどうしても気になるし、ちゃんと未来までコントロールしたくなってしまう。でもそれはじぶんも相手もそのまんま受け入れる信じきるができてないってことになるわけで。そこがまだまだなんだなって課題までもが見えてきた今回の事件(?)。朝無邪気にはしゃぐチビを見て、まだ赤ちゃんのおもかげたっぷりの姿に何を根つめてたんだろう…と拍子抜けな気分とともにそんなことをしみじみ思ったのでした。カラダが伝えたいメッセージはごくシンプルだったんだろうけど、芋づる式にいろいろ思うところにたどり着けたんだから奥深い。ゆっくりじっくりだけど確かに変わってる。でも流れがなんだか停滞していたのも確かに感じてたこのごろ。心だけじゃなくてカラダに耳を澄まなくちゃだめなんだなあ〜。自覚はないけどなぜか誰からも「がんばりやさん」と、付き合いの浅いひとからも言われてしまうタイプなら特にきっとそう(笑)じぶんを生きるってほんとハード!もっと気合いれてがんばります(笑)

「自分の価値はひとが決める」

ここ数日ずっと久しぶりの友人、知人に子連れ同士で会うという機会が続いてました。小さい子が集まると外で会うとなるとファミレスくらいしかなく(汗)たいていそういうときは誰かしらの家に行ったり、自宅に来てもらったりというかんじになります。だからそんな予定ができたときは手土産なり、おもてなしのお茶菓子なんかを準備します。まだ授乳中だった頃までは、朝昼晩の食事の支度も余裕がなかったくらいなので手土産類はどこかで調達が通常。でも授乳期も終わり、細切れだけど10分くらいはひとり勝手に遊べるようになってくるとキッチン作業もかなり楽になり、さらにうちは乳児期の5ヶ月間もの間ちょい深刻なアレルギー疑惑の広範囲の湿疹で食事制限の必要があったので、パンやおやつの類は手作り以外はあげられなかったのもあって。なので手土産、おもてなし類はさらっと作れるくらいに手慣れちゃった、という副産物に恵まれました。というわけでこのごろ作り方を覚えた”あんぱん”をお土産に。すると…みんなに驚かれ。わたしは「へ?」(笑)だって。わたしにとっては「地味で素朴な高級感に欠けるおみやげ」。手作りったってわたしにとっては「必要に迫られてやるしかなかった」ことで、最近は「日常の”作業”のひとつ」でしかなかったこと。きっと食べることも作ることも好き!!!!って大げさなレベルじゃなくてまあ、きらいではないかな…くらいのレベルのひとなら、その「フツー」加減ってわかってもらえると思います。でもそういうことを日常的にしないひとや、「ものづくり」に”なんとなくのさじ加減”が肌でわかったりしないひとにはすげーー!!!ってなるもんなんだなあ、と改めて感心。 まさに「価値」ってこういうことなわけなのよね、 と妙に納得してしまったのでした。わたしはいままでやってきたことが「特殊技能」としての立ち位置が確立された職種を自分の仕事としてやってきていたので、そういう感覚をつかみたくても本当よく理解できなかったんです。技術やその他の必要な資質については明らかに「超努力」したし、めっちゃ時間も労力もお金もエネルギーもかけまくってきたわけですから。うん、たぶん命と引き換えくらいエネルギーつかってた。だからこそ、こんなちいさな存在であるわたしに対して信頼も、決して安くはない対価を認めてくださってたんだと思います。ただ、40歳を目前にしてある程度の時間「生きる」をやってきて、すこしずつじぶんも世界も変わってくる中で「仕事」に対する感覚も今までどおりではなんとなく違う…と、ズレを感じていたんです。がんばってがんばってがんばってがんばって。がんばってがんばってがんばってがんばりつづけて。そういうんじゃなくて、もっと100%対ヒト、じゃなくてじぶん=商品みたいな図式をシンプルに表現していく”必要”があるんじゃないかって思ってたんです。すこしでも「無理」な部分があると相手も違和感だし、何より「じぶん」が行き詰まり、息つまる。そんなエネルギーのままで提供するものは同じ共鳴を生んでしまう。”サービス”や”商品”ってそのくらい「ひびく」エネルギーとしての存在なんじゃないかな、と。起業なんていう言葉は似つかわしくないけど、フリーランスという形(=自分自身が会社であり商品であり社長であり社員である、しごとにまつわるすべて)で仕事をしていたから自分の価値を自分でどうにか決めて、それを伝え なきゃいけないみたいな部分がどうしも抜けなくて。ものすんごい違和感があったんですよね。くるしかった。だけど結局決めるのは「ヒトサマ」なわけです。けどじぶんの価値をひとが決めるっていうことも受け入れられなかった。否定されるのが怖すぎて(笑)(じぶんにとっては笑い事じゃなかったけど… ww)じぶんの中でその「価値」を持ったものは”こっち”で”そっち”じゃない!ってなんか、そういうのもあったんでしょうね。なので今回の「あんぱん」ひとつの喜ばれ方でなんだかすごく気づきがありました。じぶん自身の受け入れ方や捉え方も変わったことも含めてね。だからってあんぱんのレシピが商品として登場するわけじゃあないんだけど(笑)「しごと」「商品」「価値」ひとつひとつの言葉の中にもいろんな細かいコトが含まれてるわけだけど、いろんな視点で考えるきっかけになりました。もやもやしてたから、ちょっとクリアになったかんじ。すっきり気持ちいい。そういえば前回もごはん関連の記事(笑)秋だからかな〜。「おいしい」がおおい季節です ww

「美味しい」も「苦しい」も”感覚”というおなじもの

秋になるとなぜか味付きのごはんが美味しくて、たべたくなるわたし。とはいえ炊き込みごはんって、「秋のめし」のポピュラーな一品だったりするから実は万人に共通するのかしら??そんなわけで今日は炊き込みめしとお気に入りの干物で簡単に。あじつけはごく薄く。ってつくってたべてたらふと思い出しました。わたし、むかしは薄味って全然すきじゃなかったと。でもいまはだいすき。うすあじにすると他の食材と喧嘩しない上に、いい塩梅の風味の抱き合わせをおかずごとに楽しめるとかそれ単体で食べても入っている具材の素材がもってる風味とお米の風味もしっかりたのしめるとか。いろいろなんかいい塩梅です。他の食材の風味も殺さないし、それだけ単体でしか成り立たないようなエグい嗜好品にもならない。クセになるあじってやっぱり良し悪しって基準ではないんだけど、やっぱり強いですよね。だから中毒性もあるだろうし、そういう味じゃないと口さみしくなったりして。これってたぶん、人間関係とか人生の充実度を図る出来事とかいろ〜〜〜んなことに言えるよねと今日のごはんをひとくちひとくち味わいながら、ものすごく納得してしまったのでした。たとえば「未来を不安に思うがための胸にわく焦燥感」とか「いまあるものがなくなる未来を恐れてのいたたまれない感覚」とか。「未来がたのしみで浮足だちそうな心地」とか「いまが幸福感でじんわりあったかいきもち」とか。そういうのもつまりは全部カラダが感じてる感覚。とうことは”味覚”だって同じ部類のもの。だからかる〜〜〜〜く誰も傷つけないから話題にするような異性の趣味とか性癖(???)とかのやっちゃうんだよね〜〜〜みたいなものってあるけど、あれとほんと同じなのかな!?とピンときたわけです(笑)そういう気づきにふとたどり着いたのも、最近ずっといまにいるってことを新しい習慣にしているからだろうと思います。「いまにいる」とは日常の感覚でいうと✔心地いい感覚だけに頼らない、溺れない、✔とにかく受け止める。まんま全てを否定しないで「見る」✔”恐怖感”とか”不足感”とか”焦燥感”とか”罪悪感”とか。そういういたたまれない感覚は生まれたらただただ感じる、眺めるってことをひたすら徹底するってことをやってるってことです。(こっちにいろいろ経緯とかは書いてます。)とにかく「いま」あるものの全てをなんにも味付けしないで”観察”するってことをやってます。そう思うと「まずいもの」も経験しないと「美味しい」の価値とか位置づけとかってずっとフラットなまんまって意味でもやっぱり「万事の感覚」と共通なかんじはするなあ。てことはやっぱり「まずい」ことでも知りたくて味わいたくてそこにいるのかも。深い気づきのあじつけごはんだ(笑)なんだか書き残しておきたくて、の記事でした。

超めんどくさがりな私でも布ナプキン派になった理由

11月もあと数日だけおど半袖を着る日も、ニットを着込む日もある。日本の四季も変わってきましたね。今日はこの記事とこの記事のつづきです。前回までの記事で産後のカからだケアと、前後の変化を書いたんですが…そのひとつに生理のとき布ナプキンを使うようにしたことも入ってました。これ、わたし的に結構いろいろ発見があったんで是非別に書きたかった!のでこれだけ単独です。というのは…わたし自身布ナプキンってめんどくさいなんか不潔っぽいはじめ二日間を過ごすには不安材料が多すぎる地味に高い(笑)とかいっろいろ理由あって手をつけてませんでした。興味はあったけど。継続的に使ってみた結論。やっぱり紙より冷えないし、からだがよろこんでるという感覚がすごくあります。思ったより大変じゃなかった。意外なおまけもついてきたし。まず「めんどくさい」の内訳として①頻繁に変えなきゃなんない問題②外出先でどうするのか問題③はじめの二日間はどうすんだ問題がありました。①は、自宅にいる限りは取り込んでてもなんでも「わたしの不快について気遣う」を最優先にすることで解決。とういか、だいたい「じぶん」をないがしろにして生きてたもんだから「じぶん以外」からも同じようにされる現象が同じ頻度だけ怒るっていう原理がはたらくのを長年実感してきたものだから、そこを破壊してやろうという一貫のからだケア選択でもあったわけで。布ナプキンを選択するっていうのは、強制的にそこを意識しつつ、さらに実際に行動に移さないと成り立たないっていう部分があります。そこを毎月数日間頻繁に意識と行動を迫られることで、それ以外の日にもとっさの時でも自然とそっちの選択ができるようになってきました。②ですが、わたしの場合は紙ナプキンとの併用で解決。はじめは布オンリーで簡易つけおきのためのアロマと重曹のスプレーとジップロックを持っていってましたが断念しました(笑)やっぱり外出先では紙便利。ほんと今のってぜんっぜん漏れないし。といっても最初の二日間の間のどうしてもな場合だけにしてます。あんまりこだわりすぎないで、気分とからだの感覚といろいろ意見を聞いて直感的に決めてます。そのくらい少しゆるいかんじなので「続けたい」って思えるのかも。③は②の補足かな。はじめの二日間は量も多いし、痛みは気になるほどなくても下腹も重いかんじがするので体調は軽やかとは言えません。 特にはじまる前がわたしはそれが強いかな。②でも書いたけど、カラダとココロの声を聞き逃したり無視したりしないで、直感的に聞こえる意見を最優先することで解決してます。②では昼間のことを書いてるけど、例えば夜でも「深く眠りたい」って気分のときは紙にします。深く眠るより「冷えたくない」って気分のときは布で。布だと夜中一回は起きるんだけど、不思議と自然に目覚めたそのときに変えようとすると漏れる寸前のところだったりします。無視して変えないでいたことあるけど、そういうときは漏れてました。(といってもほんのちょっと。)洗濯は案外そこまで大変ではなく。冷水に長い時間つけておけば、石鹸でこすり洗いでほとんど経血の痕跡はなくなります。※つけおきまでの放置時間の長さによって落ちやすさが変わりますが。と。ここまでで産後に変えたカラダケアのいろいろを書いてみました。もちろんカラダの変化もうれしかったけど、わたしにとっては「意外なおまけ」が一番の収穫。それはカラダの面から「じぶん」を優先する癖をココロにつけられたこと。いままでどおりの生き方から「破壊と再生」ってのをずっとやってるけど、やってみての結果は文字とはウラハラにそれは「じぶんを生きる」って覚悟を”育てる”作業でした。覚悟というくらいだからやっぱり高いとこから飛び降りるくらいの怖さがいつもある。そういう面ではカラダからのアプローチって、その「恐怖」の部分がないので気持ちが楽〜という印象。いままで「オンナ」特有のカラダのバイオリズムの変化には、こと否定ばかりしてきたけれど、これから仕事をバリバリするようになってもこの部分はちゃんと大切にしよう、と今は思います。夢はそういうふうでもキャリアデザインって可能だよって自分が体現すること。こども何人いても自由だし、誰といてもいなくても自由だよって。自分が体験してみたい。書いたから実現、いつかするのかな w

産後に実感した「女性」としてのからだケアの大切さ②

前回からこんな記事でからだのはなしを書きました。それまでまでやってた対処療法みたいなのはなんだったんだってくらいさっぱり不調が改善したというはなしを書いたんだけど…最後の砦的に下半身のむくみと脂肪の部分だけはぱっと目に見えた改善はなかったんですよね。正確にいうと「冷やさない対策」でもちょっとは改善したんだけど、劇的ってかんじでもなかった。で、産後にあることにトライしてそれも解決しちゃいました。それが布ナプキンとふんどしパンツ。ふんどしパンツっていわゆる紐パン状の下着。鼠蹊部(ももの付け根の部分の内股側ぐるり)のところもゴムが入ってない、締め付けがほとんどないパンツです。妊娠期からしめつけが耐えられないほどいやになったのがきっかけではじめてみました。世が少し子宮子宮と騒がしかった時期、遠巻きながら子宮と子宮まわりのケアの大切さには相当感化されて知ったもの。なんだけども理論にはグッと来たけど、グッズ関連はあんまりわたしにはキャッチーじゃなかった。でもふんどしパンツはどこかひっかかってました。内腿って出血量の致死量が出せる部位で、「一撃で刺すならそこ」とヤクザや人を殺める奴は知っている…なんていう物騒なはなしをお酒の席のグダグダ話の中での話題を覚えてて(笑)それでなんとなく。そしたらスルスル脚がすっきりした。しかもずーーーっと悩みだった膝上とモモタのところが。別に下半身が痩せるとかは全く期待してなかったけど、そりゃ巡りもよくなってむくみとかは軽減されますよね。当然といえば当然なんだけど。理屈だとそうなんだけど、からだで感じてみないとわかんないもんで。実際にそれが目に見えるように変化してやっと前のめりになりました wおかげで体型は産前よりすっきりした。そういえば35歳すぎてからノースリーブ着れなかったんだけど、産後に着れるようになりました。下半の巡りが良くなれば、結果として全身の巡りがよくなるってことなのかな。もし下半身と上半身の脂肪のつき方のバランスに疑問があるなら試してみる価値はあるかも、と思いました。布ナプキンについてはいろいろと発見があったので、別に書きます(笑)

産後に実感した「女性」としてのからだケアの大切さ①

今日はちょっと体のはなし。かなり自分のからだケアには無頓着で過ごしてたタイプだったんですが、産後にガラっと生活の中でのからだへの気遣いを変えました。40歳手前の高齢出産を経験したことによって強制的に見直しをする必要に迫られたこともあったのでね。やったことはごくごく日常的なことで、産前には重要だろうけど大して変化はないだろうってタカをくくって見向きもしなかったこと。結果的に産前よりぐーんと体調も、カラダだけじゃなくて、ココロや周りに起こることの調子も良くなってしまいました。実体験の一例として記事にしておこうかな〜と思って書いてます。まず産前、というか結婚の「け」の字もない時期からちょっと思うところあってやっていたことがあります。それは「足を冷やさないこと」。まず、✔少しでも「ひやっ」とした感覚を感じたらできるだけピタッとしたボトムを履く✔足先が少しでもひんやりしてたら靴下やタイツを履くなどして「足首」と「足」を徹底的に冷やさないようにしました。昔っからおしゃれ大好きで。カラダのことより見た目が最優先、は小学生高学年くらいから。美容師アシスタント時代に就職希望だったお店の中には、面接で「そのお店のおしゃれ基準から外れる」だけで落とされるところがありました。憧れのめっちゃおしゃれなサロンでした。で、実際、それで落とされました(涙)就職できたとこも出勤してきてファッションちょっとでもダサいって言われたら、着替えに帰らされるお店だったし。そういうこともあって、以来しばらくは服装とか見た目おしゃれに見せるってちょっと病的に執着しちゃった(汗)だからとにかく「おしゃれ最優先」でお腹も足も肩も何もなく、ガンガン冷える格好ばっかりしてました。まだアシスタント生間もないころしばらくは、仕事の中で「センス」を鍛えたり育てたりっていうのは「クリエイティブ」を感じられる数少ない職務のひとつだったし、実際に美容業ではそこが一目おかれるというのはとても大切な要素だったから必死で「おしゃれ」を研究してました。とはいえ時は流れ環境もしだいに変わっていって好みとか質の良し悪しとか選び方に芯が出てきて技術的な面と総合的な要素で評価を得ることができるようになってそこに執着して外の評価に左右されるってことはなくなりました。だけど同時に年齢も重ねていってる。「からだ」も変わってきてるわけです。どのくらいかな?30代半ばくらいかな。気がついたら「冷え」が原因の不調に習慣的に悩まされるようになってました。⚪︎膀胱炎 : 冬場はほぼ気がついたら…の頻度で発症⚪︎かなりきつい生理痛 : 七転八倒の騒ぎで薬飲まないと寝るのも辛かった⚪︎痔 : 相当な腫れものが計3つも…。冷える時期はよく痛みを伴う炎症起こして出血しました⚪︎下半身のむくみと脂肪 : 体質もありますが下半身がかなりしっかりしてる上にむくみも激しかった「冷え」以外にも要因はあるでしょうけど、それが大半の原因になってるこれらの症状。というのも冷やさなくなってからそれらが改善しちゃったから、「冷え」だったんだね!と気がついたんですけどね。変えたのは先に書いた簡単な「どっち優先するか、どう工夫するかの選択」だけなんだけど、やり出してしばらくしたらあっという間に上に書いた症状が気にならなくなるレベルに改善。ただし4つ目以外。もうでもこれは体質だと思ってたから、改善なんて結構前に諦めてました。ティーンの頃はそれに悩んでかなりハードな減量とかもよくやってたんですけどね。2ヶ月で14キロ減量とかやったことあります wwでもそれも産後に改善しちゃった。それも意外な方法で。長くなるので次につづきます(笑)