なが〜〜〜いシリーズ記事がやっと書き終わりホッとしてる午後(笑) やっぱりこのブログには日々の変化を見返すことができるような「心」のことや「変化の流れ」とかを書いていきたいから今日もそんなことを。
ここ数週間で実はまたわたし、バンジーと呼ばれる「自分の中のタブー」を犯す(?)ということをやっていました。
わたしにとってのバンジーって
いいママでいることより自分の体力を優先すること
旦那さんに寄生しきること
相手の価値観を優先する前に自分の「こうしてほしい!」を伝えること
自分のために自分にきちんとお金や手間をかけ”させる”こと
子供相手にも「いいママ」ではなく「自分」でいるのを貫くこと
でした。
どれも書いちゃうと取るに足りない印象だな(笑)
でもどれもわたしには罪悪感とうのかなんというのか、とにかく肚の底くらいからギリギリ締め付ける黒い存在を体感として感じる「苦行」だったんです。
とにかく毎日毎日毎日それをできてもできなくても「自分にそれをすることを許す!」ということを意識の底に繰り返し繰り返し言い聞かせてましたね。
そしてもちろん行動もともに繰り返していきました。
そしたらね、次つぎ「ああ、こんなだったらよかったのに!」っていう環境とか相手の変化が起き始めたんです。
現在10ヶ月過ぎになる乳児の世話をしている日々。
超電撃プロポーズからの結婚〜出産まで期間は怒涛の1年半だったうち夫婦。 はっきり言って結婚してもまだほとんど「知らない人」に等しいレベルでした(笑)
でも根っこにはきちんと言葉にはできないんだけど、しいて言えば「信頼」っていうかんじのどっしりしたものがあったから結婚に至ってるんですけどね。
まあ、でも付き合いたてに近い期間でいきなり新婚さんになってるから、お互いまだ探り探りの気を遣いい〜〜の生活だったような気がします。 しあわせいっぱいがベースではあるんだけどね。
そんなでいきなり赤ちゃんが自分たちの間に産まれてきてくれて、そしてそのベビとの生活がはじまる。 自分が正にそうでしたけど、これって出産を経験しないと本当に「?」ってかんじの想像なんてできやしない未知であり激動(肉体、感情含め)の生活なんですよね。
もうね、いま思うとほんっとう〜〜〜〜〜〜〜〜に体力、気力ともにものすごい消耗してました。 赤ちゃんのエネルギーって癒しだけじゃない。 たくさんの自分の中にごまかし持っているものを「解放」しようとあの手この手で仕組んでるんじゃないかと思うくらい
怒り
悲しみ
恐れ
とかのネガティブと呼ばれるような感情とか観念もえぐり出してくれます。(個々人で実感って違うと思うので、これはあくまでわたしの回想という前提で。)
ただ出産〜育児生活がなければず〜〜っと探り探りの生活が長く続いてて、わたしの性格的にずっと相手に気を遣ったまま「やり過ごし」ていっていただろうな、と思うんですよ。
例えば相手との価値観の違いで違和感を感じた、とか。
それについて「本当は自分はこうしたい」という願望や希望があっても、「理想の結婚生活」とか「理想の嫁像」とかに表面的に影響されて絶対言えないでいたと思うんです。
思うんです、じゃなくて実際子供が生まれるまでそうでした。
まさに下の記事のとおりのかんじ。
でもね、そういう日々を続けていくうちに最初すごく流れが「豊かさ」一辺倒に向かってたものが妙な方向へ変わっていっているのに気がついちゃったんです。
例えば
生活がギリギリの状況によくなる
とか
がんばっているのになぜだか腑に落ちない扱いを受ける
とか
出産後も今までと変わらない付き合いをしてたはずだったのに、なぜか蚊帳の外になってしまった(友人と)
とか。
細かいことは生活の中で主くん(旦那さんのことです)のわたしへの扱いがなんだか適当なような、邪険のような(?)、とにかく優先順位がすごく低い位置なんじゃないかって感じるような扱いに気がついたらなっていたりとか。
誕生日フツーに忘れたり、働いてないのに財布を期待されたりとか
本当に気がついたら、でした(笑)
あれだけ長いこと「心」のこと取り入れて実際に変化を経験するほど繰り返し実践してきて、十分にしあわせになって、もう「しあわせにしかならない」って思うほどだったのに。
何かがおかしいって思って。
そんなとき読んだのが藤本さきこさんの「設定変更」の記事たち。
何度も何度も読んでは日々のことに当てはめてみて。
そうしたら「その扱いを当然としてた自分」を自分で設定していたってことに心底気付かされました。
で、冒頭のバンジーをとにかく繰り返して起こったことは…
突然100万円がうち夫婦の手元に入ってきた
長年の夢だった自動車教習所に通うのを旦那さんが費用出してくれていけることになった
ちょっとリッチな温泉へ連れていってもらった
子供を保育園に毎週預けるって言ったら全然反対されなくて、むしろ気遣ってくれた
いつもは安いを基準にしてしまう休暇のレジャーの選択を「したい」に変えたら笑顔で承諾してくれた
とか。
まだいろいろ細いのはあるんですが、とにかく「こころが世界をつくってる」ってことを自分が心底信じてるかどうかっていうレベルが真ん中よりもずいぶん上に来た気がします。
起こったことはごくごく取り立てもない印象かもですが、もともとの自分に対する「許し」も「存在価値」も底辺以下にあったわたし。
タイトルの「長年の夢、またひとつ」って自動車教習所に通うことなんです(笑)
もう20年来かな。 お金も時間も「ない」ってずっと自分に信じ込ませてきた。
わたしにとって今起こっていることは本当に過去のわたしには「ありえないかもしれないけどそんな奇跡に出会えたらどんなにいいだろう」といつかに夢みたことでもあったこと。
「いま」を体験した今、ぼんやり思い出しました。
でもこ〜〜〜んなにやっててもまだまだ「そんなの信じられない!また恐怖を見たいのか!あのときのように酷い目に遭うぞ!」みたいな、過去に体験した苦しみ、悲しみ、恐れ、恥ずかしさとか諸々のどす黒いものと一緒に叫び声みたいのが聞こえてきます。
でもこのまま。
歩いていこう。
体が教えてくれる声に合わせて。
そう思える「いま」にいられてほんとにしあわせ。
この帽子もはじめて手に入れた「似た安いの」じゃなく、「ちょっと妥協してお手頃」でもない高価なインポートものばかりのお店で見惚れてしまったパナマハット。 こういうお買い物もいまのわたしにはまだチカラ少し入るんです(笑)
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