嫉妬。
この言葉自体だと
あ〜ジェラシーってことだよね
ってかる〜〜いかんじで意味を自分の中で翻訳?してしまいがちなものだけど、実際にその”感情”を体感するとき自分の内側は正に「熱い」という感覚がぴったりくるような状態になる。
しかも不快なくらい熱くて。
正確にはその「熱い」っていう感覚より瞬間の速さで「焼け焦げそう」な感覚を感じているというのが表現としては合っているのかもしれない。
そんな”感情”がわたしの中での実際に「感じている瞬間」の嫉妬の意味。
言葉にできるのならそこにはゲスいゲスい想いが渦巻いてる。
羨ましいって本当に感じてる内側の状態は全っ然きれいじゃない。
無意識に「上から目線」だし、無意識に自分以外をコントロールしようとする支配欲みたいなものが刺激されて頭がぐるぐるしてくるかんじ。
それは「できない自分」「置いて行かれた自分」の情けなさや恥ずかしさを感じたくない弱い自分が自分を守るために燃やした炎だってことを、ようやく最近それを感じている最中に頭の後ろあたりから眺めている自分がいることに気がつきました。
わたしはこの「嫉妬」という感情とずっと長いことうまくつきあえなかった。
この感情がなにものなのか、どんな真意を自分に伝えたいのかってことが全然わからなくて。
でも表面にあるのはゲスくてドロドロしたものだってことはわかっていて。
それを言葉にしたり、理解できる形にすることがすごく怖かったんだと思います。
「いま」のわたしは自分を極端に「価値のない存在」として扱ってきた39年の月日からのリハビリの途中なので、日々の中、小さなことでも「嫉妬」と名のつく感情を自分の中に自覚することは頻繁とは言わないまでも少なくない頻度であります。
だけど気付いてしまった。
そこに押し込めていて嫉妬しかできない自分でいさせてる自分に。
>>>>
「どんなに憧れたって、どうせ叶わない」
と思っている自分を見下してるから、
見下されてる方の自分は、
そんなにも苦しい。
>>>>
いや、ほんと、ほんとにそう。
これを知らなかったらずっとこの感情の始末の仕方がわからなくて、でもいつまでも「そんなの感じてない”フリ”」をし続けて、でもやり場に困って変なごまかし方して過ごしていっていたんだろうなと思います。
今思うとこの
いさせてる自分
に気がつけなければどうがんばっても自分の人生は「本当に本当に自分の望む理想」のものとは懸け離れた状態だっただろうな。
つい最近まで
嫌われたかもしれないこと
影で邪険な扱いの物言いをされたかもしれないこと
蚊帳の外の存在になってしまったこと
あまり価値のない存在に変化してしまったかもしれないこと
こんなことたちで苦しい気持ちになってました。
そしてその反対側の人はいつにも増して楽しそうにしていて、変わらずキラキラしてる。
そんな現象にいつもなら「嫉妬」の”感情”でぐるぐるになって、結局はごまかして終わりにしてた。 でも今はそのぐるんぐるんしてる中身のもうすこし深いところには、もっと違う「ホンネ」を抱えた自分がいることにたくさん向き合って理解してきてる。
そして「ゲスい」表面のドロドロを持ってしまった自分のことも「認める」ってことを言い聞かせて。
そうしたら何より自分が優先されなくなってしまったことについて本当は「悲しみ」を感じてたってことに気がつくのも時間はそこまでかかりませんでした。
だから
ああ、「いさせてる自分」がいたんだな
って素直に「理解」できました。
本当に自分自身との会話、対話って毎日毎日毎日毎日、しつこくしつこくしつこくしつこく
「ほんとにそう思ってるの?」
って聞かないと30年以上もその「本当の望み」を
親のおしえ
親からの叱咤や暴力による圧力
誰かから受けた罵り
いつからか植えつけられたジョーシキ
誰かからの邪険な扱い
とかとかで「思っちゃだめなんだ」とか「そんなこと思う自分はおかしい」って押さえつけて押し殺してきた自分から取り戻すなんて芸当は難しいんだなって日々思います。
まだまだまだ。
わたしにはこびりついてる。
3年くらいはそのことをテーマにして過ごしてるのにね。
でも今日「嫉妬」と呼ばれる感情を感じた自分がいて。 いたけど前とは違う感覚を感じて、そのタイミングで「やっぱりそうなんだ」って情報を目にして。
なので覚書きもかねて、の記事でした。
写真はプライベートポートレート(ごく一般の生活をされてる女性の魅力の可能性を確認してもらいたいなという思いでやっていました。)の作品たち。 憧れる姿は「心」ひとつでなれるし手にすることができるって知ってもらいたくて仕事していたけど、わたし自身が一番それを必要としてたのかも(笑)
0コメント