秋になるとなぜか味付きのごはんが美味しくて、たべたくなるわたし。
とはいえ炊き込みごはんって、「秋のめし」のポピュラーな一品だったりするから実は万人に共通するのかしら??
そんなわけで今日は炊き込みめしとお気に入りの干物で簡単に。
あじつけはごく薄く。
ってつくってたべてたらふと思い出しました。
わたし、むかしは薄味って全然すきじゃなかった
と。
でもいまはだいすき。
うすあじにすると
他の食材と喧嘩しない上に、いい塩梅の風味の抱き合わせをおかずごとに楽しめる
とか
それ単体で食べても入っている具材の素材がもってる風味とお米の風味もしっかりたのしめる
とか。
いろいろなんかいい塩梅です。
他の食材の風味も殺さないし、それだけ単体でしか成り立たないようなエグい嗜好品にもならない。
クセになるあじってやっぱり良し悪しって基準ではないんだけど、やっぱり
強い
ですよね。
だから中毒性もあるだろうし、そういう味じゃないと口さみしくなったりして。
これってたぶん、
人間関係とか人生の充実度を図る出来事とかいろ〜〜〜んなことに言えるよね
と今日のごはんをひとくちひとくち味わいながら、ものすごく納得してしまったのでした。
たとえば「未来を不安に思うがための胸にわく焦燥感」とか「いまあるものがなくなる未来を恐れてのいたたまれない感覚」とか。
「未来がたのしみで浮足だちそうな心地」とか「いまが幸福感でじんわりあったかいきもち」とか。
そういうのもつまりは全部
カラダが感じてる感覚。
とうことは”味覚”だって同じ部類のもの。
だからかる〜〜〜〜く誰も傷つけないから話題にするような異性の趣味とか性癖(???)とかの
やっちゃうんだよね〜〜〜
みたいなものってあるけど、あれとほんと同じなのかな!?とピンときたわけです(笑)
そういう気づきにふとたどり着いたのも、最近ずっと
いまにいる
ってことを新しい習慣にしているからだろうと思います。
「いまにいる」とは日常の感覚でいうと
✔心地いい感覚だけに頼らない、溺れない、
✔とにかく受け止める。まんま全てを否定しないで「見る」
✔”恐怖感”とか”不足感”とか”焦燥感”とか”罪悪感”とか。そういういたたまれない感覚は生まれたらただただ感じる、眺める
ってことをひたすら徹底するってことをやってるってことです。(こっちにいろいろ経緯とかは書いてます。)
とにかく「いま」あるものの全てをなんにも味付けしないで”観察”するってことをやってます。
そう思うと「まずいもの」も経験しないと「美味しい」の価値とか位置づけとかってずっとフラットなまんまって意味でもやっぱり「万事の感覚」と共通なかんじはするなあ。
てことはやっぱり「まずい」ことでも
知りたくて
味わいたくて
そこにいる
のかも。
深い気づきのあじつけごはんだ(笑)
なんだか書き残しておきたくて、の記事でした。
これもうすあじ。ずっと前のテストシュートのいちまい。
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